【サブスタンス考察③】モンストロ・エリザスーとは何だったのか?男性の期待が生んだピカソ的怪物

映画サブスタンス レビュー モンストロエリザスー 男性の期待のピカソ 映画

※本ページはPR、ネタバレが含まれています

なぜ、あんな姿になっても、彼女は鏡の前に立ったのだろう・・

レビュー③では、ラストに登場する第三形態・モンストロ・エリザスーについて書きます。
グロテスクな描写があることは①の冒頭で触れているので、
苦手な方はそちらもご参照のうえご注意ください。

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映画サブスタンス考察①②

考察①では、ロッカー番号「503」、車のナンバープレート等から
様々なIT関連の伏線を見つけました。



考察②では、黄色いコートの意味や、ファスナーの金と銀などの対比から
監督の緻密な設計を考察しました。

どちらも、空想が止まらず長くなってしまいましたが、
今回は、もう少しラフな感想寄りです。


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(記事中ほどにリンクあり)

欲望が形になった怪物、モンストロ・エリザスー

美と若さを求め続けた果てに、エリザベスとスーは一つの体に混ざり合ってしまいます。
生まれたのは、もう人の形とは呼べないモンストロ・エリザスー。

その姿を見た時、はじめは恐怖心を感じたのですが
そのあとに何故か「切なさ」が込み上げてきました。

なぜならエリザスーは、望んで生まれてきたわけではないからです。
エリザベスの欲、スーの欲、その両方に振り回された結果、生まれてしまっただけの存在。

管理人
管理人

誰も悪くないのに、一番醜い姿にされてしまうのがエリザスー。それが一番つらい。

欲望を育てた男性のまなざし

レビュー②で書いたように、
エリザベスの周りにいた男性は、プロデューサーのハーヴェイにしても審査員にしても
決して彼女を大切に扱ってはいませんでした。

エリザベスが「若さと美」に執着したのは、彼女自身の内側から湧いた欲望というより、
長年そうやって値踏みされ続けてきた結果、
育てられてしまった欲望だったのではないかと思います。

海外のインタビューを見ていても、監督のコラリー・ファルジャは、
この映画の暴力性について、女性同士が傷つけ合う姿を描きながらも、
その根っこには加齢や外見で女性を値踏みする社会があるのだ、

という趣旨のことを繰り返し語っています。

エリザベスの自己嫌悪は、彼女一人の弱さではなく、
彼女を取り巻く視線そのものが生み出したものだったのでしょう。


参考サイト
CNNIndieWire

母の口紅と、鏡の前のモンスター

ここが、レビュー③で一番書きたかったことです。

大晦日のショーを控えたエリザスーは、
あの姿になってもなお、鏡の前でメイクをし、ドレスに着替えようとします。

誰がどう見ても恐ろしい姿なのに、それでも身支度をやめない。
その健気さに、思わず胸が締めつけられました。

このシーンを見ていて、ふと蘇ってきたのは、私の幼い頃の記憶でした。

母の口紅をこっそり借りて、鏡の前で「おしゃれ」をしていた小さな私💄✨
それを見た周りの大人たちが、はみ出た口紅の顔を見て「かわいいね」と言ってくれたこと。
恥ずかしながらも嬉しかったこと。

しかし、大人になるにつれ、「美しさ」は他人と比べられ、
順位をつけられる残酷なものに変わっていきます。

高校の時には、不良グループがトイレの前で
廊下を歩く女の子たちに聞こえるように点数を付けている‥なんてこともありました。

管理人
管理人

それを見て「やめなよ」って言ってくれる男子がいたのは救い。


でも、幼い頃の「かわいいね」は、誰かと比較された結果ではなく、
ただ存在そのものを肯定してもらえた喜びでした。

鏡に向かうエリザスーに見えたのは、女としての美を競う姿ではなく、
あの頃の私と同じ、
純粋に「かわいいと褒めてもらいたかっただけ」の、幼い願いだったのかもしれません。

監督自身は、あの場面を「開き直り」や「解放」に近い言葉で説明しています。

体が壊れることも構わずステージに向かう姿を、
“gutsy expression of who she is”(彼女という存在の、思い切った表現)と語っていて、
そこには他人の目が作り上げた”完璧”への抵抗のようなニュアンスがあります。

参考▶In Review OnlineLetterboxd


でも私には、それだけには見えませんでした。
開き直りというには、あの姿はあまりに無防備すぎる気がするのです‥😥

息も絶え絶えながら、メイクをしアクセサリーを付け、髪を巻いて、ドレスを着る。

体は過剰に細胞分裂を繰り返し、完成されていないままなのに
誰かに反抗しているというより、ただ楽しみにしていた晴れ舞台で「見てほしい」
皆が待っていてくれるから、期待に応えたいという、もっと幼い願いに近い気がしました。

造形的な美しさを競う「女としての美」ではなく、
まだ誰にも審査されていなかった頃の、無条件の「かわいいね」。

監督が語る”抵抗”や”自由”の物語の奥に、私はもっと小さくて、もっと切実な願いを見た気がします。


サブスタンス(字幕/吹替)

男性の期待が生んだピカソ

監督は、モンストロ・エリザスーについて、こんな言葉を残しています。

“I wanted her to be recomposed in a Picasso way, with everything at the wrong place,”
(彼女をピカソ風に再構成したかったんです。つまり、すべてが間違った場所にあるようにね。)

■ Vultureの記事
How The Substance Created the Ultimate Body of Horrors

エリザスーの顔には、スーの顔を中心に、
エリザベスの顔や歯が、あるべきではない位置に配置されています。

まさにピカソが描いた、多角的な視点をひとつの平面に押し込めた女性の顔そのものです。

ピカソも最初から「見たままを崩して」描いていたわけではありません。
写実的に描く技術を身につけたうえで、「自分の目に映る多次元的な真実」をどう表現するかに、生涯をかけて向き合った画家でした。

先日、「ピカソ meets ポール・スミス展」に足を運んだのですが、
そこでも改めて、ピカソが女性をどう「再構成」してきたかに触れる機会がありました。

ただ、ここで少し複雑な気持ちも正直に書いておきたいと思います。

ピカソの発言には、
「女は女神か、それとも足ふきマットのどちらかだ」という有名な言葉があります。

女性を崇拝してミューズ(女神)のように扱うか、
あるいは自分の支配下に置いて踏みつける(足ふきマットのように扱う)か、
そのどちらかしか存在しないという、残酷な愛憎観を表した言葉です😣

管理人
管理人

ネットにも、こういう人たくさんいるよね~‥

実際、ピカソの人生には多くの妻や愛人が登場しますが、
恋人を変えるたびに、彼は前の女性を精神的に追い詰め、
自身の創作のための「ミューズ」として搾取し、翻弄したと伝えられています。

61歳の彼が、21歳の学生だった女性と関係を持ったこともあります。

近年、こうしたピカソの女性関係や発言が改めて問い直され、
彼を単なる天才として祀り上げるのではなく、その人間性ごと見つめ直そうという動きが出てきています。

ブルックリン美術館の企画展のように、
彼の作品とフェミニズム的な視点をあえて並べて展示する試みも生まれているほどです。

参考▼
ピカソの女性関係と「女神か足ふきか」発言の経緯/ The Paris Review
没後50年を機に高まった再評価の動き/ The Week
ブルックリン美術館の企画展「It’s Pablo-matic」/ Time Out New York

私自身、ピカソの作品や才能そのものは、今でも好きです。
でも、現実の女性たちを「女神か足ふきか」でしか見ていなかった‥
という事実には、単純に称賛だけでは終われない、複雑な気持ちが残ります‥😒

監督が使った「ピカソ」という比喩は、
画風の話だけでは済まない皮肉を帯びてくる気がします。

監督は政治学を学んだ知的な人。
そして過去のレビューでも書いた通り、様々なモチーフにテーマとは異なる皮肉を混ぜてきた人です。

エリザスーの顔が「男性の期待が生んだピカソ」だとしたら、
それは、女性が本来持っているはずの姿を、周りの期待や視線が勝手に「再構成」してしまった結果、とも言えるのではないでしょうか。

まとめ:美の基準は、誰のものか

モンストロ・エリザスーは、誰の目にも醜い怪物です。
それでも、鏡の前で健気に身支度をしていた彼女に、私は幼い自分を重ねてしまいました。

美しさを誰かと比べて競うものではなく、
ただ「かわいいね」と愛情表現として言われた一言で満たされていた頃の記憶。
エリザスーが本当に欲しかったのも、案外そんなシンプルな言葉だったのかもしれません。

私はそこに、エリザベスの本質(サブスタンス)を見たように思います。

デミ・ムーアが語った、”物差し”を手放す話

他の方のレビューで見つけたデミ・ムーア自身が、2025年のゴールデングローブ賞で『サブスタンス』の主演女優賞を受賞した時のスピーチです。

Demi Moore Wins Best Female Actor – Motion Picture – Musical/Comedy | 82nd Annual Golden Globes


英訳されていた文をまとめると・・・
俳優として45年以上活動してきた彼女にとって、これが初めての受賞だったこと。
30年前に「ポップコーン女優」と言われ、その言葉を”評価はされない存在”という意味に受け取ってしまい、その思い込みが長い年月、自分をむしばんでいたこと。
そんな低迷期に舞い込んだ『サブスタンス』という脚本と、監督コラリー・ファルジャへの感謝。

そして最後に、
「賢さが足りない」「かわいくない」「痩せていない」と感じてしまう瞬間について触れ、

ある女性から言われた言葉として、
「あなたは決して”十分”にはなれない。
 でも物差しを手放しさえすれば、自分の価値を知ることができる 
という言葉を紹介していました。

エリザベスが劇中で失っていった感覚を、
演じたデミ・ムーア自身が現実のキャリアで経験し、乗り越えていた。
フィクションと現実が、こんな形で重なるとは思っていませんでした。

①②③と、思いのほか長いシリーズになってしまいましたが、
最後までお付き合いいただきありがとうございました☺


サブスタンス(字幕/吹替)

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